#6 クソゲー考察
昔からよく言われる「クソゲー」について考えてみました。
単純に考えれば「クソゲー=つまらない」という構図になるが、明確な定義は存在するのか?
クソゲーという言葉が生まれたのは、割と最近だったと思うが、それでも数十年前の話である。筆者の感覚で言わせてもらえば、特にファミコンのゲームに多かった気がする。ファミコンといえばゲーム黎明期を代表し、家庭用ゲームの地位を磐石なものにした不動の名機である。そして、それに追従するように多くのメーカーが数々のゲームを開発していった。
この頃はゲームを出せば飛ぶように売れ、爆発的にゲームが普及した時代であり、これは、一昔前に携帯電話が普及しまくった様子によく似ている。そして、数多く生まれたゲームの中には、名作と呼ばれるものとそうでないものに大別され、そうでないものという不名誉な称号を授かったゲームがいわゆるクソゲーである。
それでは、クソゲーという意味は何か。
つまらない又は面白くないというのが大方の意味になると思うが、果たしてそれだけの理由でクソゲーと切り捨てていいのだろうか?ということを筆者は時々考える。あるゲームをプレイして、面白いと感じる人がいれば、つまらないと感じる人もいる。プレイする人の嗜好は千差万別であり、一概にクソゲー呼ばわりできないのではないか、というのが最大の理由だ。ゲーム黎明期では実に多くのメーカーが現れ、消えていった。
今のようにゲーム開発を専門に行う企業が少なく、この分野はまだまだ発展途上だった訳で、ゲームというジャンルは一つの「商売道具」でしかなかった。そうした中、ソフトを出せば売れるという現象が頻発し、仕舞いにはゲームと全く関係無いような企業までもが参入するという状態にまで発展したのである。そして、残念ながらこれらのメーカーが生み出したゲームの大半は、世間ではあまり受け入れられず、クソゲーという判定を下された。
ただ、ゲーム開発に不慣れなメーカーが出したゲームは、型にハマらない破天荒なモノが実に多かった。いわゆる色モノと呼ばれるゲームの数々は強烈な個性の光を放っており、まさにフロンティア精神溢れるものがあったのは事実である。筆者は、そうしたヤツらに対し安易にクソゲーという称号を授けるのには抵抗がある。家庭用ゲームの地位を押し上げた立役者の一員として、ヤツらに敬意を表してやまないのは筆者だけかもしれないが、少なくともゲームに対する愛が感じられることが、筆者の中でヤツらの地位を押し上げている理由かもしれない。中にはゲームシステムが破綻しているような困ったモノも多かったが、そういうゲームにも愛情を持ってプレイしてあげてほしい、というのは言い過ぎだろうか?
これまで色々言ったが、結局は筆者個人の感想なので、クソゲーという言葉はこれからも活躍するであろうが、その言葉の意味を時々でいいので考えてみてほしいと願うのは筆者の甘さだろうか。(これらは全て筆者の独り言です)